調査研究
インタビュー
舞台芸術
2026.1.19
【調査研究】名古屋の文化芸術を支える人たち vol.6 古川博さん

2024年度に引き続き、2025年度も調査研究の一環で「名古屋の文化芸術を支える人たち」のレポートを連載します。
名古屋で鑑賞できる美術、音楽、演劇などの文化芸術に関連し、美術家、演奏家、舞踊家などの表現者や、美術館、文化施設、教育機関の企画者などに関する記事等は数多くありますが、イベントやプロジェクトを支えるマネジメントの担い手の紹介はそれにくらべると多くはありません。本調査では現在、名古屋の重要なプレーヤーとなっている方々の経験談から、文化芸術活動へのヒントを発見していただければと思います。
第6回 インタビュー:古川博さん

撮影:リア制作室
<プロフィール>
ナゴヤ座番頭・舞台照明家。1982年、三重県生まれ。名古屋芸術大学音楽学部音楽ビジネスコース卒業。舞台制作会社に勤務後、ロンドンへ留学。帰国後に舞台照明・デザイン業務を主とするホタルギグを立ち上げる。2016年、円頓寺にカブキカフェ『ナゴヤ座』を西川千雅(西川流家元)らと立ち上げ、商店街の活性化にも貢献している。2023年度日本照明家協会賞(舞台部門)優秀賞受賞。
<職種紹介>
ナゴヤ座番頭・舞台照明家
照明の現場では、演出の意図を汲んで仕込みから本番のオペレートまで担う。ジャンルを問わず国内外の照明表現をリサーチしながら独自の舞台空間をつくっている。ナゴヤ座では劇場運営者として企画・予算管理・デザイン・スタッフ育成・役者のサポートまで一貫して行う。照明家としては演出を可能にする絶え間ない技術の向上と体力が、劇場運営では人と現場を動かすための段取り力とコミュニケーション力が求められる。
ナゴヤ座と照明の両輪で
いま僕がやってることを一言で言うと、ナゴヤ座を運営しながら、照明家として現場に立ち続けてるって感じですね。劇場の番頭として作品づくりから運営まで全部やりつつ、照明の現場もオペラ、バレエ、演劇、ミュージカル…ジャンル関係なく飛び回っています。
照明の現場は2〜3人の助手と組んでチームで動きます。いまナゴヤ座には常駐スタッフが3人、臨時スタッフ3人、アルバイト3人、役者は10人。立ち上げの時からスタッフと役者の生活を守ることを最優先に、どれだけ苦しくても給料は必ず払う、犠牲になるのは僕ひとりでいいっていう覚悟でやってきて、2026年に10周年を迎えます。
いろんな現場で照明の仕事をしていますが、公共ホールは当然制約だらけなんです。だからナゴヤ座は制限のない空間にしたいと思って、飲食OK、声出しOK、人が飛び交う演出も、オヒネリも何でもアリ。運営するための劇場ではなくて、お客さんに楽しんでもらうために100%できる劇場、そういう場所にしたいっていうのは当初からありましたね。

ナゴヤ座 舞台の様子
バンド少年、ロンドンで衝撃を受ける
中学からギターをはじめて、高校ではベースを担当して、毎月ライブをやるようなバンド小僧でした。プロになりたくて「東京行きたい」って親に言ったら全力で止められて。たまたま名古屋芸術大学に音楽ビジネスコースができて、「じゃあここ行くか」って進学しました。実は楽器の練習よりライブを企画してお客さんが盛り上がっている方が好きだと気がついていたんですね。だから“つくる側”になるのは自然なことでした。
大学で企画を学んで、レコード会社への就職を目指したけど落ちて。東京で開かれた合同会社説明会でもさぼって一服していたら、隣にいた人が浜松の舞台制作会社の社長でした。面接の機会をいただいて、そこに就職が決まり、本当は音響をやりたかったんですが照明を担当することになって、この世界に。
はじめから3年ぐらいで独立する計画だったんですが、辞めてから直感でロンドンに留学しました。現地ではとにかく劇場やパブに飛び込んで、音楽と社会問題、民族や差別の歴史、リアルなクラブカルチャーを体験しました。たいしてお金も持っていなかったので、日本人とトルコ人とバンドを組んでイベントやってアルバイトをして、実はその時のイベント名が「ホタルギグ」で、いまの社名にしています。
海外で自分が知らないことをとにかく体験したい、それだけで英語も文化も何も知らずに行ったんですけど。飛行場に降り立った時に、やっちまった…と急に不安になった。それまで自分で選択して、自分の意思で生きてきたはずなのに、それは“既にある選択肢”から選んでいただけで、本当はもっと無限の選択肢がある、いままでめちゃくちゃ狭い世界で生きてたんだ!ってなぜか気づいちゃったんですよ。そこから、僕は日本人で、日本で生まれて、僕にしかできないことが絶対あるなと思って。日本帰ったら“ここでしかできない”っていうことをやらないと、死ぬ間際に後悔するなって感じたんですよね。
26歳、自分の人生を自分で決めていこうと決意したことをいまでも覚えています。
人との出会いが1本の線に繋がっていく
帰国後は、オペラの名古屋二期会事務局でアルバイトをしたのをきっかけに、照明の仕事をいただくようになります。
どんどん現場が広がって、原智彦さん(スーパー一座座長、ハラプロジェクト主宰)に出会って、また価値観が揺さぶられました。原さんから名古屋能楽堂で「パンク歌舞伎」をやるから手伝って!と言ってもらって、制作・照明・舞台監督・チラシ制作と全部やりました。歌舞伎って型がありますけど、そういうのどうでもいいなと思うくらい目の前で起こることがめちゃくちゃ面白くて、自分は何がやりたい?何が見せたいんだ?って衝撃的でした。これだ!と思ってしばらく原さんの手伝いをやらせてもらい、そこで「橋の下世界音楽祭」っていうイカレたお祭りをやってるバンドTURTLE ISLANDと仲良くなったり、さらに2作目のパンク歌舞伎「リア王」で現在のナゴヤ座の名古屋山三郎に出会ったんです。僕と同い年なんですけど、当時から役者としての演技力とか、人を惹きつける魅力とか、すごく光るものを持っていて、こいつと何かやりたいなっていうのをすごく感じさせられたんです。さらに日本舞踊の西川千雅さん(西川流四世家元)らと出会う中で、演劇も歌舞伎も知らないけど挑戦したい、自分でものを作りたい、「劇場やりたい!」って。日本で生まれた僕は何をすべきなのかってロンドンで考えたことが、このためにやってきたのかなっていうぐらい繋がって、「この人たちと何かやりたい!」という気持ちが強くなっていったんです。

ハラプロジェクト パンク歌舞伎「マクベス」出演者・スタッフ
ナゴヤ座の誕生とどん底、“演劇のある生活”へ
建築家の市原正人さん(株式会社ナゴノダナバンク代表)に「円頓寺のテナントでなんかやってよ」と声をかけられて、2016年4月にナゴヤ座は始まりました。
杮落とし公演はなかなかうまくいかず、お店を立ち上げること自体がとても大変で、全く余裕がなかったんですよね。それでも1日2回公演で12月まで上演しました。「これじゃない、これじゃない」って必死に変えていって。最初はメディアでも取り上げられて、ご祝儀的に来てくれたんですが、半年も経つと予約ゼロの日があったり貯金も尽きて…舞台上で頭を下げて協賛金を募ったことはいまでも忘れられません。3人の役者が岡崎市の“グレート家康公「葵」武将隊”出身だったんですが、その頃からのお客さんが応援してくれて、2~3か月続けられることになりました。
その時に、本当に真剣に考えて演目を芝居中心に切り替えたんです。名古屋二期会で知り合った右来左往さんに助けを請うて、「勧進帳」をベースにしたナゴヤ座に合うような演目「TORA-NO-O -虎の尾-」を書いてもらいました。これがすごくヒットしてお客さんがすごい喜んでくれて、ナゴヤカブキの形が見えてきた。ちょうど1周年の頃です。
超・極上ナゴヤカブキ「GANKUTSU-O -復讐の鎮魂歌-」公演風景
毛利亘宏さん(劇団少年社中主宰)、田尾下哲さん(演出家・劇作家)との作品も続いて軌道に乗りました。2024年には田尾下さん脚本・演出で生オーケストラを擁した「超・極上ナゴヤカブキ「GANKUTSU-O -復讐の鎮魂歌-」」に発展、アレクサンドル・デュマの「巌窟王」をベースにした演目です。2025年末までやっていた「Akou 47 Revengers -雪乃忠臣蔵仇討合戦絵巻-」はいわゆる忠臣蔵で8ヶ月のロングラン、多い人は100回以上観に来てくれた。討ち入りの日には赤穂公演を企画して、義士祭の「忠臣蔵パレード」にも参加できました。遠征してくれたお客さんもいましたし、役者も楽しんでくれて、日本の歴史とか文化を掘り下げてやるのはすごくいいなと思いました。
「第122回赤穂義士祭パレード」の様子
ナゴヤ座がいまの形になったのは、僕の戦略ではなくお客さんが望んだから。名物「オヒネリガチャ」もその一つ。地歌舞伎のオヒネリ文化に出会ったことと、流行りだしたデジタルなガチャガチャをやっていてひらめきました。役者ごとに1回500円で回すと、カプセルの中に手作りのオヒネリと缶バッジが入ってます。当たりバッジを引くと、その役者のフォトカードに直接サインをもらえる。その間に役者と話すことができるので、自分の感想を伝えたりできる。役者の給料の多くはこの歩合です。多い人は月に同じ年代のサラリーマンのちょっと多めの月収ほど、少ない人でもその初任給ほど。だいたい“推し”が決まっているんですが、その日のパフォーマンスが良かった役者のガチャも回してくれるんですよ。芝居の中で役者が見栄を切ったら客席からオヒネリを投げて、終演後は感想を伝えて、お客さんの声が劇場の空気も仕組みもつくっていますね。
名物「オヒネリガチャ」 撮影:リア制作室
それと月間パスポートを発行して通い放題、“演劇のある生活”を提案しています。週末に円頓寺で芝居を見て、ご飯食べて飲んで、また月曜から頑張る。そんな日常ができたら、人生はもっと豊かになる。根本の部分は江戸時代から何も変わってないのかもしれません。ナゴヤ座も一つのビジネスモデルとして成立しつつある。
“明日”来てくれるお客さんに楽しんでもらう
働きすぎとコロナ禍の重責からか、2023年にパニック障害を発症しました。高速道路の渋滞で突然呼吸が乱れて動けなくなり、救急搬送されたんです。まさか自分が、と思いました。働けるし、やれる時にやりたいことやろうと突っ走ってきたんですが、「任せるところは任せる」という判断も必要なんだと気づかされました。
後進に何か言うとしたら、まず「やりたいならやるしかないよ」ということですね。僕も最初から演劇をやりたかったわけじゃない。出会った人たちと動いていたら、こうなっていた。知識ゼロでもやりながら勉強して、現場で学べばいいと思うんです。大事なのは、本気の人と出会ったとき、自分の心が動くかどうか。出会いは自分を動かすので、そこに正直でいてほしい。大学の講師としては、「幻想を抱きすぎるなよ」とも言いますね。SNS時代でキラキラしたものが多いからこそ、旨い話に惑わされず、もっと根本を見つめてほしい。
ビジネスって、結局は“明日来てくれる一人のお客さん”に対して何ができるかを考えることだと思うんです。人間ってめっちゃ難しくてめんどくさい。いま生きている環境も文化も人種も宗教も全部違う。その一人一人が望むことにどれだけ応えられるか。日常を楽しみたい人に、「僕らはこれができます」って提案して、価値を感じてくれたら報酬としてお金を落としてくれる。マーケティングも勉強したけど、お客さんは一人一人違うからメソッドなんてなくて、結局ピンとこない。だから目の前の“一人”に向き合うことを積み重ねるしかないんですけど、そうやって10年。いまこの形になってるのかなと思います。
ただただ縁があって招かれて、人との出会いが1本の線として繋がって、いまここにいる。「僕がやるべきことは何なのか」をやっているだけなんですよね。こうしたい、ああしたいという思いはあるんですけど、頭で考えたことを無理にやろうとするとズレが生じるんで。身の丈に合って、周りが求めてくれることを一歩ずつコツコツやっていく。遠回りかもしれないですけど、そうやって正解に導かれるんだと思います。
実は円頓寺や名古屋に特別なこだわりがあるわけではないんですよね。今まで自分が出会ってもらった人たちとの縁でここにいて、これをやらせてもらっているという感覚です。ロンドンという場所にいた事はどこかで意識しますけど。照明の世界でも、東京だとジャンルごとのカテゴリで分けられることがあって、オペラならオペラ、J-POPのコンサートならずっとそれ、と専属になる人が多いんです。でも名古屋だと照明でも何でもやらなくちゃいけない。その環境が、自分の中の柔軟性やいろんなものを取り入れる力を、鍛えてくれたのかもしれません。
僕自身はもう表に立つことはありません。裏で支えて場をつくることをずっと突き詰めてきたので、この立場で関わっていくことで良いものを創り続けて行けると思っています。照明は身体が資本なので、今朝も走ってきました。動けるうちは自分で動きますよ。
写真:古川博さん提供
*1、6枚目を除く

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